小机城址と雲松院
臥龍山雲松院は曹洞宗の寺で、小机城(史跡指定)の城主であった小田原北条家の家老笠原越前守信為が主君北条早雲と亡父能登守信隆の菩提を弔うために建立したものである。寺伝の「雲松院起立記」によると建立の年代は「天文年中」とあるが実際は寺伝より若干古く早雲公七回忌と信隆公の三十回忌に当る大永五年(一五二五)いまから四百五十年前ごろと推定される。
当時、伊豆に興った北条早雲は着々と相模、武蔵の経略に力を注ぎ、小田原城や三浦半島を手に入れてゆるぎない地盤をこの神奈川県一帯に築きあげた。北条二代氏綱公が英君で父早雲の遺志を継ぎ、関東一帯の平定に成功して北条百年の基礎を固めるのであるが、雲松院開基の越前守信為は、主にこの二代氏綱の時代に活躍した大将であった。
北条の歴史書である「小田原衆所領役帳」によれば「大永四年(一五二四)氏綱が江戸城を攻撃しての帰り、この小机の地を通りかかって、当時廃城となっていた小机城の修復を命じ、そこに笠原越前守信為とその子康景を城代として置く」と書かれており笠原氏と小机の関係はこの時から生じる。
笠原氏は当時、伊豆戸倉の城主だったというが、新しく移った小机城はその所領十八万石といわれ、陪臣ながら戦国の英雄織田信長の最初のころの所領などと比べるとずっと大きな大名である。
新領主となった笠原氏は、当時の武将の間で深く信仰されていた曹洞宗の熱心な信徒であったので旧領戸倉に近い静岡県榛原郡榛原町の石雲院七哲の一人季雲永岳に頼み、その弟子天叟須孝和尚を招いて雲松院の開山とした。こういう関係で雲松院では季雲永岳和尚を勧請開山として初代とし、開山天叟順季和尚を二代に置いている。ともあれ小机領は北条氏にとって新しく手に入れた占領地であった。新領主としてはいち早く領民の心をとらえなければならない。そのためには粗税を軽くするとか田畑の所有権をそのまま認めるといった政策を進めると同時に、信仰心に訴える政策に効果があった。
笠原越前守信為も早速菩提寺の建立を考えたのである。「雲松院起立記」によると、新城主笠原信為は亡父信隆の冥福を祈ろうと寺院の建立を思い立ち自ら城の高所に立って場所選びを行なった。すると城の南に四方五十町ほどの山があり竜見山と呼ばれていることを知った。この山には竜池といって竜が住むという池があり、霊地として住民の信仰を集めていたので、ここに建てることをきめたという。
それが現在の雲松院所在地である。天叟順孝和尚は信為の父信隆の法名「乾徳寺殿雲松道慶庵主」から寺の院号を雲松院とし、寺号を乾徳寺とつけた。また山号は竜の住む池にちなんで臥竜山とした。なお寺号については神大寺という伝えもあり、雲松院ははじめ現在の神奈川区神大寺に建てたがすぐに火災になり、現在地に移したので。もとは神大寺といったともいわれるが定かではない。なお雲松院を呼ぶにあたって現在ではか寺号をいれていない。
本尊は虚空蔵菩薩(座像八寸、木造)で製作年代及び作者は明らかではない。寺宝としては横浜市の文化財に指定されている「享禄二巳丑年十二月十三日付、笠原越前守信為花押の熊野堂五貫文寄進状、永禄四辛酉年北条三郎氏秀禁制、元亀三年十一月朔日北条氏朱印状、天正四丙子年三月十六日北条氏朱印状、亥十二月五日沼上奉行北条氏朱印状、大河内金兵衛書簡など古文書がある。
雲松院創建当初のことが必ずしも詳らかではないのは、延享二年(一七四五)に大火に合い、古記録がほとんど失われてしまったからである。現在の本堂はその後再建されたもの。
なお墓地には笠原氏一門とその家臣門奈氏の五輪塔などがあるが、現在笠原氏とは檀信徒の関係は失われている。